行政・医療・介護の連携/開成仮診療所開設の背景

10年前、長野県南佐久の最も不便なわずか15世帯しかない集落に訪問診療していたところで、大きな揺れに襲われた。
その後、4月末に長野県医療団長として石巻に来た。
被害の大きさにはさすがに驚いたが、阪神淡路他の支援をしていたので、ほかの人よりは冷静だったと思う。

仮設が5年から10年はかかると思った。
そして、医療は2年でおおよそ戻るが、コミュニティの機能が、医療や介護の仕組みを代替してきた東北では、とても復興が難しいと考えた。

GWで医療機関はやっていないので介護施設などに飛び込んだり、避難所の市立病院看護師や住民などからヒアリングをして、石巻の医療介護の連携に大きな課題があると感じた。
行政と医療との連携他も同じだった。
医療の届かないところで働く医療者を育成したいと佐久の田舎で取り組んでいたが、医師不足の東北の惨事にこそ、今までの蓄積を生かすべきと考えた。
一応、在宅医療や地域での人材育成や、プライマリケア・家庭医などで、全国の仕事をしたり、地方を守るべく発信をしたり、川上村での取り組みも、少しずつ評価されるようになってきていた。また、故若月俊一先生の精神を伝えることも、この心材の状況の東北でなら可能という思いもあった。

当時、2011年9月に開催された「在宅ケアを支える診療所・市民ネットワーク全国大会INしんしゅう」という1000人規模の実行委員長という大役を担っていて、GW以降はそちらに集中、東北に関われたのは、その大会終了と同時にその足で夏休みと称して、東北に向かってからであった。
石巻に1900戸4800人が住むことになる巨大仮設が作られていること、2㎞圏内に医療機関がないことがわかった。
阪神大震災の時には、500戸以上の仮設住宅には診療所が作られた。それは、私が関わった、阪神高齢者障害者支援ネットワークの提案からであったし、私も阪神大震災の最大仮設であった西神第7仮設(確か1060戸)の診療所長に誘われた(その団地で活動したのが、ネットワークの代表の、故黒田裕子さんで、そこの診療所長に来てくれれば、医療と地域活動がつながるということで呼ばれたが、へき地医療を目指していた私は、神戸にはいかなかった)。
それを知っていたのと、プライマリケア的には2000人に一人の医師が適正配置なので、診療所が必要と訴えて、診療所開設を希望した。

日赤の医師には、日赤で作ってやるから、日赤にと誘われたが、私は、医療活動をしたいというよりは、被災者の生活全般の支援をしたい、そのためには被災復興の政策に少しでも関与したい、いのちを大事にした復興を目指すために、行政に入り、少しでもいのちと暮らしを大事にした復興に案るようにと思って、市に医療機関開設を希望していた。
そうしたところ、市立病院の再建要件に、在宅医療を柱とするという方針が出たことで、おそらく市立病院の再建時の在宅医療を担う医師としても期待から、開成に診療所を作ってもらえることとなった。

だから、本来は私は仮設診療所を希望したが、市立病院仮診療所であり、それは市立病院再建後も、在宅医療をという意味であった。

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