市職員と市民の協働〜開成仮診療所開設の目的〜

私は、前述のごとく、市役所の仕事がしたかった。
被災者の問題を少しでも改善するには、市役所の機能が少しでも良くなることが重要と考えていた。
それには、阪神大震災の支援と川上村での7年の経験が影響している。
川上村7年の経験は大変貴重であった。実際、南佐久地域は佐久病院の存在により、おそらく日本で一番医療が充実した農村だが、それでも過疎化は進んでいた。
藤原川上村村長に声をかけられ、日本の在宅ケアのモデルとなった柳原病院から(さらに高福祉の北欧を学びに行った後)戻る際に川上村診療所を希望した。その後8年にわたり全国町村会長を務めた(そして私を通じ石巻を全面的に支援してくれた)藤原忠彦村長のもと、計7年間という異例の長き診療所長を務めた。
村長には好きにやっていいと言われたのに、全国あるいは世界の優れたケアを広めたいと思っても思うほどにできず、自分としては不十分だと感じた。それでも7年のうちに、やはり他自治体とは異なるようになった。

当時はデータが公表されていたなかったが、今や全国1700自治体の中で最も在宅死(在宅ケア業界では、在宅死が多いことが、在宅ケアが充実していることを示す最もよい目安という意見が多い)が多い(最新ではトップではなかったが、その前2年は離島以外で全国一)となり、国の地域包括ケア・医療介護連携のモデルとして扱われるようになったが、その基本は私の時に出来たものだと思っている(私の時の方が在宅死は今よりさらに高かった)。
医療者がうまくいっていると感じる事より、行政の仕組みが少しでも改善することが、特に地方では大きいと感じるようになった一つである。

また、阪神大震災時に、被災者や住民を支援したいボランティアと、怒号を浴びせられる市役所職員の場をよく見た。
もちろん公務員は職を失わないが、被災者でもありながら、日常業務に加え震災対応をしなければならない。そもそも予算も人材も少なく、脆弱な基礎自治体が、矢面に立つことは、住民との協働が特に重要となる「復興後」を考えた場合、極めて問題であるからだ(そういった意味で、これから被災地は、本当に大変である。国を見て、出来るだけ予算をたくさんとる、それがなくなり、今度はあまり考えずに作ったものをどう生かすか?維持するのか?という住民との協働が必要な時に、住民と向き合いにくい体質となってしまったはず)。
そういった、住民や支援者と、行政がぶつかる(市役所が矢面に立つ)場所で、何度も仲裁的なことを行った。国の決まり・国の方針・国の解釈・国の指導、そういったことを国が被災者にしっかり伝えることなく、市町村に下す、国で決まっていることの不満や批判を、市町村職員が受けることになる、被災者でもあるのに。
大臣などが来ると、まるで住民は喜んで、陳情したり写真を撮っているのを見て、非難する相手が違うのでは、と思う9年だった。

住民の矢面に立つ市職員を守ること(もちろん市役所には大きな問題がある、とは思っているが、そのこととは別)が、とにかく大事と思っていた。被災者の支援に来た医師であることと、市職員であるということを生かして、対立を少しでも和らげる、それも当初からの目的であった。だから、出来るだけ業務終了後も、週末も、さまざまなボランティアや住民の集まりなどに出るようにしていた。住民から担当課長が非難されているときに、ボランティアと同じ立場で傍聴していて、仲裁したことを、被災当事者である団地会の会長さんたちが評価してくださって、以降、仮設住宅の自治会・団地会の会長さん方の組織、仮設住宅自治推進連合会の理事となった。これはちゃんと市役所内でも了解を取ってのことであった。
そして行政と住民との協働を目指し、協議を行う、地域包括ケアの委員・部会長をお願いする、ほかいろいろをともに歩ませていただいた。石巻の地域包括ケアが、国から評価されてきたのは、間違いなく、被災住民として、自治連の方々に参加していただいたからだと(市がそう理解していたかは、甚だあやしいが)考えている。
また、どうしても復興が、ハード中心になることが予想される、それを少しでも行政に入って、縦割りではなく総合的に、いのちと暮らしを大事にした復興にするべく、復興政策・施策に関わりたい、だから市の医療機関を作って欲しい、それが希望であった。

医療・医師として採用され市の仕事をしたい、それが日赤や開業ではなく、市立病院の仮診療所を作ってもらった目的であった。

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