地域包括ケアが復興庁の目玉事業になった訳

私が、石巻に行くことが報道などで流れるようになったころ、一本の電話があった。早口で、『野田内閣の東日本大震災特別対策・・・の事務局の、Oです。今回、東北に医療支援に行っていただけるとのこと、大変感謝しております。藤原全国町村会長からも、全面的に支援するようにと言われておりますと』のことであった。控えることもできず、ネットでもよくわからない、しかしそのOさんとは、この東日本大震災を中心的に仕切った、O次官であった。

また、石巻に赴任する前に、以前から在宅医療推進などでお付き合いがあった厚労省のトップ官僚と会食をする機会があった。佐久病院から引き留めを依頼されていてのことだった。彼は発災時に菅直人に呼ばれ内閣にいて、発災からの石巻市の混乱ぶりをつぶさに知っていた立場から、単なる医療支援だけではなく、中長期に石巻の復興に関わりたい、そのために市役所に入って行きたいという話に、石巻は震災前からとんでもない大変なところだし、震災後もとても問題が多い、やめておいた方が良い、と強く言われた。
いや、大変だから行くのですと答えたところ、本当にその覚悟があるなら、応援する、と言ってくださった。彼はおそらく佐久からの説得依頼を受けていたこと、私の性格を知っていたことから、あえて、石巻市は震災だけでなく、とても大変なところであることを教えてくれたと思う。そして、彼としても被災地に行ってほしかった(佐久には人材はいるから)と思う。そういった、全国の多くの期待や応援を受けて石巻に来たと思って、今まで活動してきた。
その後事務次官にはなり損ねたものの、地方創生を生み出し、そのトップを務められた。
石巻市が、地域包括ケアによる復興の街づくりで、地方創生の地域支援事業第一弾、地域再生計画などを国のモデルでいただけているのは偶然ではない、と思っている。

石巻市に来るに際し朝日新聞の「人」などメディアで取り上げられた。また極めて異例だと思われるが、まだ実績どころか開設されていない診療所が、厚生労働省肝いり政策の在宅医療連携拠点事業のモデル(全国105か所で2100万円ほど:全国の在宅関係者や厚労省の応援と感じた)に選ばれた。このことで、市の中で少し意識されるようになったと思われた。実際、市内全体の在宅医療や介護の実態の把握、医師会との協力関係の構築などが進み、石巻市立病院が再建時に在宅医療を一つの柱にするということと整合性がとれ、病院再建へのステップとなることでもあった。

開成仮診療所で活動を開始してしばらくして、市役所に呼ばれ副市長にいろいろ聞かれた。なぜ先生は(元総務省事務次官で、復興を中心的に仕切った)O氏に目をかけられているのか?ということであった。
全国町村会長藤原忠彦氏の村の診療所で24時間体制を7年間貫き二人三脚で全国のモデルとなる仕組みをつくり、その厚い信頼があり、全面的に応援してくれる(それは今でも同じで、全面的に応援する!と言ってくださっている)からだと説明した。
その数か月後、地域包括ケア(医療・介護などと地域づくりを一体的に考えること、今の国の基本的な方向性)を復興の基本に据えて欲しいという意味が理解されたのかは、今となると甚だ怪しいが、石巻市として私が訴えていた、地域包括ケアを重要政策とすることが決まった。
包括ケア推進室と包括ケアセンターが出来、私が包括ケアセンター長を兼務することとなった。復興庁の前身にあいさつに連れていかれ、O氏に初めてお目にかかったが、新規に始まる、新しい東北という復興庁の目玉事業にエントリーを進められ、私が看板役となって新しい東北のモデル事業となった。

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