石巻市長選出陣式演説① 文字起こしをアップします!

 皆さん、こんにちは。

 この度石巻市長選に立候補させて頂きました、前市立病院医師、前石巻市立健康部包括ケアセンター長、前雄勝診療所長、元開成仮診療所長の長純一です。今桜井前南相馬市長の応援をいただきましたように、私長純一、この10年間、被災された皆さんの命を守る活動と暮らしを守る支援を、微力ながら努めさせて頂きました。

 私の想いを少しお聞きください。この10年間、私は皆さんからのリクエストがない限り、この歌を歌ってきました。

〜千の風になって〜

 この歌は鎮魂歌です。多くの命を石巻では失いました。しかしその方々が、今も皆さんをそして石巻市を見守っていると、私は思います。またさらに命を守る、命を大事にする石巻を、こうして石巻のぞみ野の風となって、皆さんの命を暮らしを支え、応援しているものと信じております。

<10年前のあの日>
 私は10年前のあの日3月11日(一括りに10年という言い方は好きではありませんが)、長野県の農村部の診療所で、平均年齢80歳15世帯の恐らく近い将来に無くなってしまう村の山の中の集落で、往診をしておりました。長野でも大きなゆれとともに家が傾きかけ、怖くて屋外へ出た恥ずかしい記憶があります。診療所に戻ると、仙台空港の飛行機が流されている、そのような映像を見ました。

 4月に石巻長野県医療団長として石巻に医療支援に訪れ、日和山から眺めた光景は、今も忘れられません。私自身は、阪神大震災あるいは国際保健、途上国への支援等を行ってきたので、他の方に比べれば災害に対しての免疫はあったと思いますが、目の前に広がる光景は、その光景の中心に被災した旧市立病院があったわけですが、私の中でずっと残っています。

<ふるさと、日本の原風景を守りたい>
 私は東京生まれで都会育ちです。ふるさとがない。そういった日本の田舎を守りたい、そう思い、ずっと人口の少ないほうに移動し、長野県の山の中で19年間、医療を通じ地域を守る活動を行ってきました。阪神大震災の時には、集会場や仮設住宅など、その後の震災支援のモデルとなった活動に参画しました。阪神大震災の被災地の診療所に来て欲しいという依頼を受けましたが、私はいわゆる「僻地」、社会的資源の少ない所の医師になりたいという志を実現するために長野に残り、先程お話ししたように長野の診療所で村の診療所長として活動してきました。在宅医療や地域包括ケア、あるいは農村地方問題を語る者として一応認識されていたと思います。そのような中で東北という医療が貧弱で、また非常に地域のつながりが強く、都会の目線での復興では大変な問題が起きる、ふるさと、あるいは絆といわれたような地域の繋がり、こういったことを意識した復興をしなければ今までの災害以上に箱物の復興になる、そのことを考え、私は4月医療団としてきた後に石巻の復興に関わりたい、そのように考えました。

<開成仮診療所のこと>
仮診療所という診療所を作って頂き、開成地区4800人の方の健康支援を行うことができたのは、現市長の判断でありました。赤十字病院に診療所を作るというお話しも開成頂きましたが、私は「市」の医療機関を作って欲しいということを希望しました。そして市立病院の仮の診療所として開成仮診療所を作って頂き、開成地区4800人の方の健康支援を行うことができました。「市」の診療所というのは、復興において、行政と連携し、政策的な活動を展開することが必須だと思っていたからです。コミュニティを失い、家族を失い、友人を失い、仕事を失い、生活面での様々な不自由、様々な喪失がある中で、医療、健康面を狭く捉えるのではなく、皆様の暮らしや希望を少しでも支援する復興政策をしなければならない。そのことは阪神でも感じましたが、東北という地方の持っている人々の繫り、こういったものを私は尊いものだと感じ、農村部に肩入れしてきた立場でそれを重視してきた復興に少しでも関わりたい、その想いで開成地区に診療所を作って頂きました。

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