石巻市長選に向けて

先日、河北地区の農業法人にお邪魔して働く女性の生の声を伺ってきました。

「北上に住むが、これからの医療が心配」「旧河北町だが、閉院があって心配」と言った声が聴かれました。

石巻の郡部の医師不足はどこも深刻で、北上地区も多分に漏れず市立橋浦診療所に只野医師が長年地域医療に取り組まれてきましたが、定年延長での非常勤扱い続けている状況です。
石巻市の地域包括ケアは、牡鹿・雄勝・北上という被災地の復興とその地にある医療機関がいずれも市立であることを関連づけることと市立病院の再建と連携することが基本でした。

つまり、復興の街づくりと医療を関連付けることをうたい、そのことが国から高く評価されてきました。その結果、石巻市の地域包括ケアは地域再生計画や中心市街地活性化の国のモデルケースとなり、市内中心部の復興でさまざまな事業を進めることに貢献したのでした。しかし、この8年間で、当初うたった、復興の街づくりと市立医療機関との連携や地域包括ケア推進は、特に旧郡部でまったく進みませんでした。

橋浦診療所の後継問題もずっと以前から問題提起してきましたが、放置されています。医療機関が機能しないとその地域で人は暮らせなくなることは全国の調査ではっきりしていることです。

そのことを彼女たちからも聞くことができ、特に牡鹿・雄勝・北上地区にとっては地域の存続に関わる大きな問題であること、大きな争点になることがリアルに感じることができました。

私が掲げる『いのちを守る』「市立病院改革と地域包括ケア 在宅医療日本一を実現する」
という政策はこの問題に正面から立ち向かうものであります。

市立病院が本来持っていた総合診療を柱として、若い医師を集め教育する、そのことでむしろ地域で働く医師が潤沢に集められ、牡鹿・雄勝・北上・網地島・田代島などを医師不足は解消します。地域医療・在宅医療を柱とする再建策をしかっりと成し遂げることこそがこの問題を解決する唯一の方法だと確信しています。

そして、在職中8人の医師を集めた経験があり、若い医師を集め育てることのできるノウハウも持っています。

そのほかにも「市立病院に小児科がない」のこと、「子育てするなら女川や東松島の方がいい」という声も聴くことができました。

「未来へいのちをつなぐ」には若い力、子供を育てやすい環境の整備は、必須です。保育や子育て支援を全力で支援するだけでなく、市立病院に友人を呼んで小児科を開設し、保育や教育機関や保健と連携しながら、子育てしやすい街日本一を目指します。

津波避難について

これで、いいのでしょうか?
県の方針に反し、石巻市ほかは避難指示を出さなかったとのことです。避難指示を出すととても大変なことは市役所にいた立場で、よく理解できます。
一方、とにかく避難ということがいのちを救う上で基本だと思います。
さらに高齢者や様々な自立度の低い、避難が一人で出来ない方が当たり前に地域に暮らしている時代になります。
災害被害のリスクを考えれば、何でも逃げろでしょうし、一方で逃げることはとても大変な労力でもあります。
またすぐ逃げろを繰り返されればオオカミ少年のようなことも、起きえます。
少なくとも、石巻市では、元々障害などある方々の実効的な避難の仕組みは不十分であると感じていました。
一方でこの前の地震の時には、避難指示がなくても、道は渋滞していました。
私が指摘した、医療・介護機関の避難問題以外にも、そもそもこんな状況で、避難訓練を強化したと言っても原発再稼働できるはずがないのではないでしょうか?

出馬表明            

昨日、出馬会見で、主要政策を述べました。(全部書くのではなく、緩く書きます)

いのちを守り、いのちをつなぎ、いのち輝く、石巻

いのちを守る
何よりも、新型コロナ対策(詳細は書きませんが相当オリジナルです)。
石巻の特徴は、市が医療機関を持っていること。
その市立病院を生かした独自のコロナ対策(感染症医と在宅医療を持つ)と地域包括ケアを生かして、特に介護現場・介護職の支援を行うなどで、全国一の新型コロナ対策を行う。
経済・雇用対策として、市独自の助成や貸し出しを行う。現在行われていない、福祉職も加わっての総合的な生活困難状態の支援を行う。優れたアドバイザーの元、迅速にブレーキを踏んだり緩めたりを行うことで、一律ではなく、細やかな対策が迅速・正確に行える。

市立病院改革
医師を8人集めた実績を生かし、全国から集める。
総合診療医育成と在宅医療を中心とする再建時の方針に戻す。
在宅医療はすでに提携を約束されており、2年で日本一の在宅医療を構築し、希望すれば離島を含めて市内全域で、家で最後まで暮らせるようにする。
サービス不足地域の支援と、中心部の介護の24時間化を支援する。
市立病院に、学校保健や子育て支援子供の貧困などの支援を行うため小児科を開設する。
まだ多数の震災後心のケアを必要とする方々や、新型コロナでの自殺の増加や障碍者の支援を行うため、精神科も開設する。精神科と総合診療と保健・福祉と連携し、認知症の予防・早期発見・治療・そして認知症の方でも誰でも安心して暮らせる地域づくりを進める。低額・無料診療を検討する。

女川原発再稼働に慎重
避難道路整備と避難訓練は当然必須条件だが、避難計画に大きな問題あり、現状の避難計画での再稼働は認められない。

防災
避難所・公民館・集会場などのICT環境の改善

いのちをつなぐ
子供と女性をとにかく重視する。
就労・結婚・出産・子育て・介護などのつながりを総合的に支援する。
石巻は日本創生会議の消滅自治体に含まれる。
それは若い女性が地域に残るかを最重視しているが、女性の就労の4人に一人が医療介護であることから、就労環境や保育環境の改善を行う。
出産の支援・子育て支援(学童・放課後児童クラブなど)を、NPOなどと協働しながら進め、保健だけでなく福祉と医療も関り支援を行う。子供の権利条例を尊重し、子供の貧困や食の支援を行う(子ども食堂などの強化)

自然と文化の尊重
サンファン号の解体を阻止し、中瀬に移し、観光資源と郷土愛を育む教育施設として位置付けるため、全力で県と交渉していく。農協グループに所属し、農村に12年暮らしながら診療所で家で最後までを支援し、農村を守る運動を行ってきた経験から、産業という視点だけではなく、環境保全や生きがいの維持という点で、一次産業と環境を守る。

いのち輝く
経済・雇用対策  
行政改革
 
現市政内で重要政策に関わってきた経験から、見える数々の問題の解消をする 特に震災後深まったと思われる市民と市役所の意識の乖離を埋めるべく、市長自ら市民及び職員との対話を尊重する市民との協働や総合支所との関係の見直しを進めるために、市民参加型の市政を目指し、ICTを活用したり、タウンミーティングを行うジェンダーバランスに配慮し、女性の視点を行政内で重視する。

地域包括ケアが復興庁の目玉事業になった訳

私が、石巻に行くことが報道などで流れるようになったころ、一本の電話があった。早口で、『野田内閣の東日本大震災特別対策・・・の事務局の、Oです。今回、東北に医療支援に行っていただけるとのこと、大変感謝しております。藤原全国町村会長からも、全面的に支援するようにと言われておりますと』のことであった。控えることもできず、ネットでもよくわからない、しかしそのOさんとは、この東日本大震災を中心的に仕切った、O次官であった。

また、石巻に赴任する前に、以前から在宅医療推進などでお付き合いがあった厚労省のトップ官僚と会食をする機会があった。佐久病院から引き留めを依頼されていてのことだった。彼は発災時に菅直人に呼ばれ内閣にいて、発災からの石巻市の混乱ぶりをつぶさに知っていた立場から、単なる医療支援だけではなく、中長期に石巻の復興に関わりたい、そのために市役所に入って行きたいという話に、石巻は震災前からとんでもない大変なところだし、震災後もとても問題が多い、やめておいた方が良い、と強く言われた。
いや、大変だから行くのですと答えたところ、本当にその覚悟があるなら、応援する、と言ってくださった。彼はおそらく佐久からの説得依頼を受けていたこと、私の性格を知っていたことから、あえて、石巻市は震災だけでなく、とても大変なところであることを教えてくれたと思う。そして、彼としても被災地に行ってほしかった(佐久には人材はいるから)と思う。そういった、全国の多くの期待や応援を受けて石巻に来たと思って、今まで活動してきた。
その後事務次官にはなり損ねたものの、地方創生を生み出し、そのトップを務められた。
石巻市が、地域包括ケアによる復興の街づくりで、地方創生の地域支援事業第一弾、地域再生計画などを国のモデルでいただけているのは偶然ではない、と思っている。

石巻市に来るに際し朝日新聞の「人」などメディアで取り上げられた。また極めて異例だと思われるが、まだ実績どころか開設されていない診療所が、厚生労働省肝いり政策の在宅医療連携拠点事業のモデル(全国105か所で2100万円ほど:全国の在宅関係者や厚労省の応援と感じた)に選ばれた。このことで、市の中で少し意識されるようになったと思われた。実際、市内全体の在宅医療や介護の実態の把握、医師会との協力関係の構築などが進み、石巻市立病院が再建時に在宅医療を一つの柱にするということと整合性がとれ、病院再建へのステップとなることでもあった。

開成仮診療所で活動を開始してしばらくして、市役所に呼ばれ副市長にいろいろ聞かれた。なぜ先生は(元総務省事務次官で、復興を中心的に仕切った)O氏に目をかけられているのか?ということであった。
全国町村会長藤原忠彦氏の村の診療所で24時間体制を7年間貫き二人三脚で全国のモデルとなる仕組みをつくり、その厚い信頼があり、全面的に応援してくれる(それは今でも同じで、全面的に応援する!と言ってくださっている)からだと説明した。
その数か月後、地域包括ケア(医療・介護などと地域づくりを一体的に考えること、今の国の基本的な方向性)を復興の基本に据えて欲しいという意味が理解されたのかは、今となると甚だ怪しいが、石巻市として私が訴えていた、地域包括ケアを重要政策とすることが決まった。
包括ケア推進室と包括ケアセンターが出来、私が包括ケアセンター長を兼務することとなった。復興庁の前身にあいさつに連れていかれ、O氏に初めてお目にかかったが、新規に始まる、新しい東北という復興庁の目玉事業にエントリーを進められ、私が看板役となって新しい東北のモデル事業となった。

市職員と市民の協働〜開成仮診療所開設の目的〜

私は、前述のごとく、市役所の仕事がしたかった。
被災者の問題を少しでも改善するには、市役所の機能が少しでも良くなることが重要と考えていた。
それには、阪神大震災の支援と川上村での7年の経験が影響している。
川上村7年の経験は大変貴重であった。実際、南佐久地域は佐久病院の存在により、おそらく日本で一番医療が充実した農村だが、それでも過疎化は進んでいた。
藤原川上村村長に声をかけられ、日本の在宅ケアのモデルとなった柳原病院から(さらに高福祉の北欧を学びに行った後)戻る際に川上村診療所を希望した。その後8年にわたり全国町村会長を務めた(そして私を通じ石巻を全面的に支援してくれた)藤原忠彦村長のもと、計7年間という異例の長き診療所長を務めた。
村長には好きにやっていいと言われたのに、全国あるいは世界の優れたケアを広めたいと思っても思うほどにできず、自分としては不十分だと感じた。それでも7年のうちに、やはり他自治体とは異なるようになった。

当時はデータが公表されていたなかったが、今や全国1700自治体の中で最も在宅死(在宅ケア業界では、在宅死が多いことが、在宅ケアが充実していることを示す最もよい目安という意見が多い)が多い(最新ではトップではなかったが、その前2年は離島以外で全国一)となり、国の地域包括ケア・医療介護連携のモデルとして扱われるようになったが、その基本は私の時に出来たものだと思っている(私の時の方が在宅死は今よりさらに高かった)。
医療者がうまくいっていると感じる事より、行政の仕組みが少しでも改善することが、特に地方では大きいと感じるようになった一つである。

また、阪神大震災時に、被災者や住民を支援したいボランティアと、怒号を浴びせられる市役所職員の場をよく見た。
もちろん公務員は職を失わないが、被災者でもありながら、日常業務に加え震災対応をしなければならない。そもそも予算も人材も少なく、脆弱な基礎自治体が、矢面に立つことは、住民との協働が特に重要となる「復興後」を考えた場合、極めて問題であるからだ(そういった意味で、これから被災地は、本当に大変である。国を見て、出来るだけ予算をたくさんとる、それがなくなり、今度はあまり考えずに作ったものをどう生かすか?維持するのか?という住民との協働が必要な時に、住民と向き合いにくい体質となってしまったはず)。
そういった、住民や支援者と、行政がぶつかる(市役所が矢面に立つ)場所で、何度も仲裁的なことを行った。国の決まり・国の方針・国の解釈・国の指導、そういったことを国が被災者にしっかり伝えることなく、市町村に下す、国で決まっていることの不満や批判を、市町村職員が受けることになる、被災者でもあるのに。
大臣などが来ると、まるで住民は喜んで、陳情したり写真を撮っているのを見て、非難する相手が違うのでは、と思う9年だった。

住民の矢面に立つ市職員を守ること(もちろん市役所には大きな問題がある、とは思っているが、そのこととは別)が、とにかく大事と思っていた。被災者の支援に来た医師であることと、市職員であるということを生かして、対立を少しでも和らげる、それも当初からの目的であった。だから、出来るだけ業務終了後も、週末も、さまざまなボランティアや住民の集まりなどに出るようにしていた。住民から担当課長が非難されているときに、ボランティアと同じ立場で傍聴していて、仲裁したことを、被災当事者である団地会の会長さんたちが評価してくださって、以降、仮設住宅の自治会・団地会の会長さん方の組織、仮設住宅自治推進連合会の理事となった。これはちゃんと市役所内でも了解を取ってのことであった。
そして行政と住民との協働を目指し、協議を行う、地域包括ケアの委員・部会長をお願いする、ほかいろいろをともに歩ませていただいた。石巻の地域包括ケアが、国から評価されてきたのは、間違いなく、被災住民として、自治連の方々に参加していただいたからだと(市がそう理解していたかは、甚だあやしいが)考えている。
また、どうしても復興が、ハード中心になることが予想される、それを少しでも行政に入って、縦割りではなく総合的に、いのちと暮らしを大事にした復興にするべく、復興政策・施策に関わりたい、だから市の医療機関を作って欲しい、それが希望であった。

医療・医師として採用され市の仕事をしたい、それが日赤や開業ではなく、市立病院の仮診療所を作ってもらった目的であった。

開成仮診療所と心のケア

東北に来るにあたり、佐久・若月をおそらく誰よりも、と言っていいほど大事に思っていたこともあり、また農村部を守る医師が潤沢にいるわけではない事実もあり、悩みもあったが、医師不足の東北に、医療を通じて地域を守る、いのちを大事にする社会を目指す、若月精神を広めることは、それにも増す大事なことだと考えた。
患者さんに泣かれたこともあったが、多くの方は、東北の惨状を見て、こころよく送り出してくれた。

当初より、市立病院の再建を意識して医師確保を目指して欲しいという伊勢院長の意向と、東北にプライマリケア医養成拠点を作って、地域を守る医師を育成したいという私の生涯のミッションが一致し、全国から人を募った。
他に誘われたところもあったが、開成を選んだのは、阪神の仮設支援の経験から、仮設は徐々に縮小していくが、地理的に開成であれば、市内の在宅医療に切り替えていけば、仕事がある(医師を確保していくことが可能)と考えたこともあった。幸い優秀な指導医が全国から集まり、また被災地で地域のことを学びながら、被災地の支援に関わりたい、と考える若い医師がプレハブの診療所に集まり、指導医4人専修医3人の7人と、東北で3本の指に入るプライマリケア研修機関となっていた。

開成では、内科標榜だったが、実際は多くのメンタルの課題を抱えた方々を診療した。広くいうと、うつとPTSDで500人近くの方を診療したこととなり、おそらくその7割ぐらいは私が診療・診断したものである。
その多くは、身体症状を訴えて受診、もしくは風邪などの受診時に、コミュニケーションをとりつつ状況を聞き出すと、実はうつやPTSDという方が、ほとんどだった。特にPTSDは、ほとんど診断・診療されていないのが被災地の現実である。私が学んだ知識では、時間がたつとPTSDの治癒は難しいということだったが、私が関わらせていただいた方々は、多くは相当に改善した。

それはその筋の日本の権威の先生にも評価していただき、厚労省の班会議にも参加させていただくこととなった。おそらく今でも、PTSDや鬱の方は、たくさんいるのが被災地の現実であるが、それをうまく支援者につなげていないことは大きな課題である。
いくら心のケアが大事といっても、心のケアが、精神疾患をイメージし、そのスティグマ・偏見が強い以上、心のケアを忌避する傾向が強い。
認知症などでもみられるが、東北・石巻では、精神科・こころを病む元への忌避が著しい。そういった方々を、一般診療を行いながら、数多く診療させていただき、多くの方々が改善されたことを経験し、被災地でこそ、プライマリケアで、メンタルを少しでも見られれば、被災地の課題は大きく減ると確信している。
またこれからの取り組みでも、飽かず多くの、心病む人々をどう支援者につなげるのか?大きな課題だと感じている。

行政・医療・介護の連携/開成仮診療所開設の背景

10年前、長野県南佐久の最も不便なわずか15世帯しかない集落に訪問診療していたところで、大きな揺れに襲われた。
その後、4月末に長野県医療団長として石巻に来た。
被害の大きさにはさすがに驚いたが、阪神淡路他の支援をしていたので、ほかの人よりは冷静だったと思う。

仮設が5年から10年はかかると思った。
そして、医療は2年でおおよそ戻るが、コミュニティの機能が、医療や介護の仕組みを代替してきた東北では、とても復興が難しいと考えた。

GWで医療機関はやっていないので介護施設などに飛び込んだり、避難所の市立病院看護師や住民などからヒアリングをして、石巻の医療介護の連携に大きな課題があると感じた。
行政と医療との連携他も同じだった。
医療の届かないところで働く医療者を育成したいと佐久の田舎で取り組んでいたが、医師不足の東北の惨事にこそ、今までの蓄積を生かすべきと考えた。
一応、在宅医療や地域での人材育成や、プライマリケア・家庭医などで、全国の仕事をしたり、地方を守るべく発信をしたり、川上村での取り組みも、少しずつ評価されるようになってきていた。また、故若月俊一先生の精神を伝えることも、この心材の状況の東北でなら可能という思いもあった。

当時、2011年9月に開催された「在宅ケアを支える診療所・市民ネットワーク全国大会INしんしゅう」という1000人規模の実行委員長という大役を担っていて、GW以降はそちらに集中、東北に関われたのは、その大会終了と同時にその足で夏休みと称して、東北に向かってからであった。
石巻に1900戸4800人が住むことになる巨大仮設が作られていること、2㎞圏内に医療機関がないことがわかった。
阪神大震災の時には、500戸以上の仮設住宅には診療所が作られた。それは、私が関わった、阪神高齢者障害者支援ネットワークの提案からであったし、私も阪神大震災の最大仮設であった西神第7仮設(確か1060戸)の診療所長に誘われた(その団地で活動したのが、ネットワークの代表の、故黒田裕子さんで、そこの診療所長に来てくれれば、医療と地域活動がつながるということで呼ばれたが、へき地医療を目指していた私は、神戸にはいかなかった)。
それを知っていたのと、プライマリケア的には2000人に一人の医師が適正配置なので、診療所が必要と訴えて、診療所開設を希望した。

日赤の医師には、日赤で作ってやるから、日赤にと誘われたが、私は、医療活動をしたいというよりは、被災者の生活全般の支援をしたい、そのためには被災復興の政策に少しでも関与したい、いのちを大事にした復興を目指すために、行政に入り、少しでもいのちと暮らしを大事にした復興に案るようにと思って、市に医療機関開設を希望していた。
そうしたところ、市立病院の再建要件に、在宅医療を柱とするという方針が出たことで、おそらく市立病院の再建時の在宅医療を担う医師としても期待から、開成に診療所を作ってもらえることとなった。

だから、本来は私は仮設診療所を希望したが、市立病院仮診療所であり、それは市立病院再建後も、在宅医療をという意味であった。

東日本大震災から10年②

石巻市の追悼式へ。
開成の巨大仮設住宅群がなくなり、その跡地が複合文化施設となり、そこで式が行われます。

開成仮診療所跡地から撮った施設です。

この10年は?仮設住宅支援の7年は?

昼間は、Cafe de Monk へじちれんのある、集会場にて。

開成の仮設住宅時代から続けて頂いています。ありがたいことです。

南浜にての追悼。
震災支援で石巻に来た「仲間」が、関わっています。

とても大事な日(毎日毎日の日常にも関心は持っていただきたいですが)です。

東日本大震災から10年

本来なら、もっと10年をそして復興の在り方について、発信するつもりでしたが、いろいろな記憶が様々な感情を引き起こし、冷静に文章を書けません。

ごめんなさい。

最終日

本日で、8年10ヶ月の、石巻市立病院他の勤務が終了します。最終日は、雄勝診療所でした。

ご支援ありがとうございました。