生涯忘れられない日

2月12日は、生涯忘れられない日となりました。

約9年間勤めた、石巻市立病院・市雄勝診療所・市包括ケアセンターを辞することとしました。
                           
急な表明で、関係者の皆さんには大変ご迷惑をおかけし、大変申し訳ありません。
また様々な形で、ご支援いただいた皆様には、本当に感謝しております。特に一緒に活動した同志ともいうべき皆さんには、申し訳ない思いでいっぱいです。                       

復興のお手伝いをするうえで、少しでも市役所が良くなることが、医師として被災者一人一人を診る以上に重要と考え、市立病院そして行政に入ることを希望し、今まで活動してきました。
震災からの復興で、市民と行政が対立構造になりやすいことを少しでも緩衝できれば、と考えて様々な活動や場に参加しました。

特に最初の5年ほどは、ほぼ年中休みなく、それでもまだいろいろ課題に取り組まなければならない、身体がいくつあっても足りないと感じ、大変だったが、今思うと充実していたのかもしれません。
もちろん思うような仕事が出来たとは言えず、ストレスもたまりましたが、それは覚悟してきたこと、本当に大変な状況の方々寄り添えているのか?さらにいのちを大事にした復興に少しでもお役に立てるべく、全力で取り組んでいるか?自問し続けてきました。                            

一方、地域包括ケアや市立病院では課題が山積みであるが改善が進まず、ここ数年いくら内部で問題提起しても一向に変わらず、これ以上続けても意味がないのではないか?と考えるようになりました。そしてむしろ私が権限が全くないにもかかわらず外向きに看板となっていることで、問題が認識しづらくなっているのではと考えるに至りました。

例えば、石巻市の地域包括ケアは、地域再生計画など復興の街づくりに直結した国の様々なモデル事業となっていますが市民でそのことを知り、あるいはそれを実感している人はいるのか?

そもそも私は希望しても全く街づくり・住宅政策などに関与させてもらえないにもかかわらず、大臣や復興庁・内閣府などには、私が地域包括ケアと街づくりを説明し納得させるということを繰り返していることで、インフラ整備には大きく貢献したと思われるものの、それが被災者の方々にとって望ましいことなのか?どういう意味や価値があるのか?疑問に感じていました。

もちろん助っ人として、市に利益をもたらすことに貢献出来たこと自体は意味はあると思ってきましたが、私を応援してくれてきた方々が望んでいたことは、そういうことだったのか?と自問自答することが多くなってきていました。         
そもそもの課題として、市立病院はこれでよいのか?地域包括ケアや復興の街づくり特に牡鹿・雄勝などはこれでいいのか?  

市長交代のこの機会に、これらの問題を明らかにし、争点にしてもらうことに意義があるのではと考えるに至りました。                   

3.11から10年のこの復興をどうとらえ、どう評価するのか?こういった重要なことも、発言するのには公務員をやめなければならない、そのことの方がより重要であると考え、決断する要因になりました。                        

急なことで、ともに築いてきた同志・仲間を裏切るような形となり、本当に慚愧い絶えないです。ただ、この重要な問題を、公務員である限り、市民の皆さんに知ってもらうことが出来ないと感じ、今回の決断となりました。

今日は、辞表の提出後、研修会で私なりに、石巻市立病院と地域包括ケアがどういった課題を抱え、今後どう改善していけばよいのかを話しました。厳しい質問・暖かい発言、いろいろいただきました。久しぶりに(以前は患者さんの話で往々なることもありましたが)涙腺が開いてしまいました。                       

期待に沿えなかったこと、本当に申し訳ありません。

ただ、市民の皆さんが、市議が、メディアが、課題に気づいて欲しい、その一念です。

雄勝

昨日の雄勝は快晴。ようやく高台側の道路が通り、雄勝観光物産交流館・雄勝硯伝統産業会館とその背景の真っ青な海を、見下ろしながらのドライブがてらの通勤となります。ただ道はまだまだ工事が続いています。

行政と現場の架け橋になるために

阪神高齢者障害者支援ネットワークの活動をまとめた「ボランティアと呼ばれた198人」、今から25年前のもの。

読み直してみて、NGO的に生きると言っていた私が、行政の中に入ることの重要性に気づかされたのは、社会派の医学生を受け入れることが多く、彼ら彼女らが厚労省の医系技官となり、給料も安いなか、死ぬほど働いていることや、厚労省などの官僚の皆さんが、(もちろん例外はあるが)国の将来を憂いて必死に仕事をしていることと、現場の医療者や国民とに乖離や対立があり、その間に入って、そのつなぎをすることが重要ではと思ったからです。

被災地でもNPOやボランティアの方々と、市が対立する構造を少しでも減らしたい、だから被災者向けの医療を行うというより、むしろ市に入って市役所を応援し少しでも良くなることが、結局市民の皆さんの利益になると信じて今まで頑張ってきました。

でも、学生時代からNGO活動などに出入りしていた私が市役所で仕事をすることには、限界があるな、よく我慢して来たな、と思う今日この頃です。

地元民でない私にできること、やるべきこととはー

阪神(当初は長田)高齢者障害者支援ネットワークのニューズレター3号(1995年3月)です。
当時は、今の福祉避難所の原型のような活動でした。

空いたデイサービスセンターに虚弱な方16人ほど預かり、全国からの介護ボランティアがケアを提供、私は何かあった時のために泊まり込む医師でした。

この取り組みから故黒田裕子さんが活躍された仮設住宅支援まで、この組織が災害関係に与えた影響は、大きかったと思います。
私自身、この組織の世話人をしばらく続けたことで、いろいろ学ばせて頂きました。

また、私がこの組織で故黒田さんと一緒に活動していたことは、実は石巻の復興で国から支援を受ける際に、極めて有利に働いていたのです。
代表を務められた故 中辻直行さん、黒田さんの応援を受け、今まで石巻で復興に関わって来ました。
私の中で、この活動に関わった方々に恥ずかしくないように、特に超人的に活躍されていたお二人の期待に少しでも応えたいと思ってきました。

お二人と異なり地元ではなく、支援者として東北に来て9年、どうしていくか?本当に悩んでいます。

私の想いの原点

26年前の阪神淡路大震災に関して、FBにまとまったことを久しく書いてこなかったように思います。
多くの国民にも衝撃を与えたショックな出来事でしたし、小さい頃2,3年ですが、神戸市長田区に住んでいたこともあり、大変心を痛め、微力ながら支援をしばらく続けました。
この時、実は仮設住宅の診療所に所長として来て欲しいと誘われたこと、まだ3年目の医師で未熟だったこともあるが、自分は途上国を含む医師・医療の乏しいところで必要とされる医師として働きたいと考えていたこと、佐久病院に愛着があったことなどで、その時点で仮設支援の診療所長にはなりませんでした。

それでも数年にわたり、所長にならなかった診療所が出来た1000戸を超す最大仮設である西神第7仮設住宅の支援に関わった仲間(伝説となった故黒田裕子さんたちです)のところに定点観測的に何度が支援?に行ったことが、東日本大震災最大の仮設住宅に診療所を作ってもらい、押しかけてくることにつながったのは間違いありません。
そして、その後今に至る、災害後の課題に、いのちと暮らしを最優先した復興目指し、地域医療の視点・実践を通じて貢献することを続けている、私の想いの原点です。                              

東日本大震災から間もなく10年、神戸と当時の自分に思いを馳せながら、石巻での活動は果たしてどういう意味があったのか?これからどうすればよいのか?を考える一日にします。

夜中のお看取り

雄勝診療所長として、夜中のお看取り(施設ヘの往診)。市立病院の在宅当番ではなかったので、少し慌てましたが、幸い飲んでおらず、往復70kmの往診でした。

医師がいない、私が行かなければ、誰もいないから暫定的にと言われ、市立病院と包括ケアセンター長に加え、診療所長をやるようになって1年半がたちました。
1.5日しか行けない雄勝診療所は、診療日数を半減させざるを得なくなりました(それでも数年来急減していた受診者数は、改善しています)。
診療日が減ったマイナスを埋めるべく、いわばサービスで、特養からは24時間電話と在宅患者を含め必要時に往診するようにしています。

石巻市立の医療機関をどう運営し、地域を守っていくのか?地域包括ケアが復興庁のモデルになった8年前から、ずっと問題提起を続けていますが、全く進展がありません。
このまま、市長も部長も退任され、暫定ってなんなのか?こういうことを、ずっと続けてきましたが、それでいいことではないと思ってきました。
市民の皆さんにも、考えていただきたいと思っています。

昔7年いた川上村は、マイナス10度以下は珍しくはないところでしたが、今はマイナス6度で、こたえます。

新年

あけましておめでとうございます。

昨年は、新型コロナに世界中が振り回されましたが私自身も
・雄勝診療所長
・市立病院在宅医療センター長
・市健康部包括ケアセンター長
と3つの長の名前はあり多忙なまま、
実際にそれを改善する権限がない状況は変わらずで、
ストレスの多い一年でした。

5月に長年の懸案だった地域包括ケア推進の拠点施設ささえあいセンターが
市立病院に隣接して完成し、
その一角で包括ケアセンターも活動を開始しています。

以前からの、在宅医療介護連携推進事業や地域力強化などに加え、
断らない包括的支援を目指しての福祉まるごと相談など、
主に地域福祉系の施策に関係するところを
保健師2人・社会福祉士5人・PT1人など多職種で、相談・支援をしています。

新型コロナ関係は別部署でありながら、市民の生活困難事例が想像していた以上に多くまた複雑なことに心を痛めています。

被災地ということではなく、おそらく今の社会状況(さらにコロナで悪化しているであろう)が生み出す構造的な課題であり、その対策をしっかりおこなうことが、行政の大きな役割であろうと感じています。
しかしこういった支援を含めた本来地域包括ケアを推進するためには、市役所全体少なくとも技術職全体の意識変革が必要であり、そのために組織・機構改革が必要と訴えてきたことは、ささえあいセンター開設時にといわれたまま、結局なんの変化もないままで、展望が見いだせない状況が続いています。

市立病院も迷走し、総合診療系指導医の退職が相次ぎ、在宅医療部門も縮小されるなど、病院再建の目的などからどんどん逸脱しており、危機的状況です。

こういった状況で、震災から10年を迎える今年、このままでよいのか?
どうすればよいのか?を真剣に考える必要があると思っています。